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明治初期の地図を眺めていたら、大井村(現在の三又交差付近)の南に見慣れない村名を発見しました。調べてみると不入斗(いりやまず)村という名前です。
なんとなく不吉な名前だと思ってさらに調べたら、ここは8代将軍徳川吉宗が開発した鷹狩の場所であって免税地域であったことがわかりました。この場所は将軍専用の狩場なので一切の狩猟を禁ずる場所=不入斗ということなんですね。

御狩場の当時の場所を昭和初期の地図にマッピングしたのが(『入新井町誌』入新井町誌編集部・編集 岩井和三郎発行 昭和2年刊)が上記地図です。

・鷹狩と政治
鷹狩は殿様のスポーツと私は教わったような記憶がありますが、実は政治的な意味合いがありました。
吉宗は権威向上と尚武奨励を込めて鷹狩りを復活させ、享保年3年10月、「御留場(おとめば・将軍の狩場の事)」の名称を「御拳場」(おこぶしば)と替え、葛西、岩淵、戸田、中野、品川、六郷の六地域を指定しました。
これにより691カ所の村が御拳場になり、江戸五里四方は事実上の禁漁区となり、江戸の防衛体勢が強化されたのです。
そして、この「御拳場」に「鳥見役」を配置、大名屋敷・旗本屋敷・寺社・幕府領など、どこへも立ち入れることを吉宗は許可しました。つまり鳥見役に御庭番と同様の動静を監視する役割を与えることにより、大江戸情報網を強化したのです。

・御狩場では何をしていたのか
吉宗は家康に次いで鷹狩りに熱心で「綱差役」を創出して囮となる鳥を飼育させました。大田区は江戸周辺では、葛西筋と共にもっとも良い鶴の生息地で、また鶴を保護する目的か「鶴寄土手」と言われる土手を4カ所造成しています。また、江戸庶民の行楽地(!)であった新井宿村(現大田区大森4丁目、現大田区中央付近)の風光明媚な荒藺ヶ崎では兎狩り(兎御成)をして、休息場所は旗本・木原屋敷(現山王木原山公園・弁天山周辺)でした。

農業への規制は田植えの水引、祭礼や講の開催、種まきの時期まで鳥見役の指示を受け、鷹場の維持が優先されました。村の人々は上げ物(あげもの)の納入、鳥の餌であるイナゴ・オケラなどの虫を捕らえたり、御狩り場の見回りなどを行っていたようです。
つまり免税のバーターで、結構な労役が発生し、ミスれば処罰されるわけで、不入斗(いりやまず)村の人々は「ここは免税地だからラッキー!」という感じではなかったと思います。大井村の人々はそんな隣人たちをどのようにみていたのでしょうかね。

最後に御狩場を現在にマッピングした図と、その規模感がわかる図を掲載します。これだけ広大な場所と維持管理するのは本当に大変だったと思います。