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<日本人二重構造説は正しかった。>

北方系でも南方系でもない古いタイプの人類=縄文人が私たちのご先祖でありました。その時代が最大3万年続いて、4000年ほど前に大陸から稲作を携えて渡来した人たちと混血が進み、弥生時代に突入したと私たちは教わっています。

それは今から100年ほど前に東京帝大のベルツ先生が唱えた混血説が土台となっていると思われます。またベルツ先生はアイヌ人と沖縄人の間に共通性を見出し「アイヌ琉球同一説」も示しました。彼の説、「日本列島に満遍なく分布していた縄文人が中央から混血が進むにつれ北と南に追いやられていった」というのは合理性があるのです。

最新の核DNA解析は、ベルツ説が正しかったことを証明しました。また解析の偏りが見られないので縄文が新しくやってきた人達と同化していった形跡が確認されました。これは大陸で起こった征服された側の男は皆殺し、女子供は奴隷にして売りとばすという要素が起きにくかったことを示しています。チンギス=ハンの遺伝子が約1600万人から見出されるように、大陸流の「征服」が行われると、やはり隔たりがおこるのです。

いってみれば現在の日本人は縄文人のが渡来人を受け入れて内包していった二重構造の上に成り立っているといえます。

<二重構造説の先に>

さてさらに進化したゲノム解析はユニークな結果を示していきます。それは現在の沖縄人と東北人と「出雲人」とが遺伝子的に近い=縄文人と遺伝的に近いという事実です。なぜ出雲に住む人々が沖縄と東北に住む人と遺伝子的に似通っているのかは研究が待たれるところですが、出雲の人々が血統を守ってきたともいえ誠に興味深いところです。

ここで思い出されるのが日本神話「大国主の国譲り」ストーリーです。倭国から日本に移行する時代に出版された古事記と日本書紀は「勝者の宣言」ではありますがそこにわざわざ記述されているという事は、記述しなければまずい状況であった、つまり当時の共通認識=事実が反映されていると考えて良いでしょう。「大国主の国譲り」とは先住民が戦わずに受け入れた物語。その先住民が実在したことがゲノム解析から導きだされたのです。これは神話が事実を反映していた事であるので大変意味深いと思います。

<大化の改新という時代>

さてかつて大井町を通っていた古東海道を探る旅に戻ります。日本の道路行政は大化の改新を経てから本格的に始まりました。

大化の改新は645年に中大兄皇子たちが蘇我馬子を誅してそれで終わりではなく、それから701年の大宝律令の発布→ヤマト国統治者の称号を大王から天皇への変更→ヤマトから日本への国名変更→外国での敗戦(白村江の戦い)、内乱(壬申の乱)激烈な時代を経て、平安末まで約400年続いたといえます。

ちなみに大化の改新とは中国大陸と朝鮮半島の外交問題を反映した物語で、唐・新羅と手を結ぼうとしたグローバリストの蘇我氏と、ナショナリスト(恐らく縄文勢力)の物部・忌部氏との見解相違が目に見える形で発露したと考えています。しかも蘇我入鹿は、飛鳥板蓋宮の大極殿(皇居内の天皇執務室)において皇極天皇の前で殺害されたとされていますので半端ではない権力闘争だったと思います。

大化の改新までは、神話時代を含めヤマトが日本列島を統一していく実体で、実在したのは第10代崇神天皇(すじんてんのう=はつくにしらすすめらみこと=初めて王様を宣言した王様)からであると考えています。また各地は群雄割拠でありまして東北=福島・山形・青森・岩手・宮城・秋田、関東=下野(埼玉・群馬・栃木の間)、東海=美濃、尾張、関西=河内、山陰=出雲、山陽=吉備九州=筑紫、日向に所在する先住民=縄文人が治めていてそれが3世紀前後までの構図。それから崇神天皇のひ孫ヤマトタケルがクマソ(九州)や東国(関東)を平定しながらヤマト王権の力は増してはいましたが勢力の北限は白河の関(茨城県と福島県の県境)周辺であったと思います。

なので古東海道は目的が流通というよりも軍道の意味合いが強く、各宿場町は軍事拠点の性格が強かったと推察されます。その名残をかつての「大井駅」の構造から見てとることができます。

それはまた次回。