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「一体、大井町の大井ってどこからきたのだろう?」という素朴な疑問があります。

こんな時は一次文献に触れるのが一番。新編武蔵風土記稿を紐解きます(1830年編纂)。膨大なレ点だらけの文献の中から大井町に関する記述を見つけました(ここの59P周辺)。

それによると建仁元年(1201年)に村内の光福寺(782年開創)境内の古井戸を「大井」と地元の人々が呼び始めたとあります。光福寺は武蔵野台地が途切れて海に向かってくだっていく中腹にあります。そこに水がドンドン湧いてくる→大いなる井戸→「大井」というのは、なるほど納得がいきます。この近くの「大井水神社」 ではいまでも泉が湧いていますし、大井五丁目の「滝王子稲荷神社」にはかつて湧き水池があったくらい、古くから泉が各所から沸き出ている場所である事も裏付てくれます。

引き続き、新編武蔵風土記稿の光福寺の由来部分を読みすすめますと、少し感じが変わってきます。昔習った古文を思い出して読んでみてください。

「除地3段1畝15歩、村の中程にあり。浄土真宗にて東本願寺の末なり。大井山と号す。当寺も古は天台宗にて此村開けし頃よりの梵刹なり。後故ありて浄土真宗となれり。其後文永2年(1265年)了海上人再興ありしにより、今も此人を中興の開山となせり。寺伝に云了海の父は鳥羽院の皇胤信光の嫡男にて、頭中将光政といへり。和泉の刺史に任ず。母は滋野井宰相の女なり。光政故ありて東国へ配流せられて民間に下れり。されど常に一子の無を歎きける故、或時斎して蔵王権現へ誓願せしが、或る夜の夢に天より星下りて母の胎に入れり。夢覚し後了海を孕みたれば、これ蔵王の奇特なれりとて宮社を造りて是を鎮座す。今品川原にある権現(大井町の蔵王権現神社?)の祠是なり。又其頃当時の住持覚円律師の夢に、聖徳太子枕上に現して曰、光政の子は即ち蔵王の化身なり。汝宣く新に井を穿ち産湯の水にすすむべしと、由て境内松樹の下に井を掘るに、人力を借ずして清泉湧出して井となる。時に建仁元年(1201年)6月15日男子誕生あり。彼水を汲で産湯となし童名を松丸と名付く。此井霊井なるによりて大井山と号し、村をも大井村と名付く。」とあります。

おやおや「このお寺の中興の祖の人が産湯を使った霊力のある井戸だから大井」というように表現が変わっています。ちょっと眉唾ですね。本当はどうなんでしょうか?

別の記述を見つけました。「客殿の北の方山腹にあり。横に深き穴なり。或書に云この井は大なる穴にて、臨むもの目くるめくるとあり、今はうづもれて穴の径67尺もあるべし。土人の傳にこの穴より湧出る水は大早といへどもつくることなしといへり。」とあります。「大きな穴の中にある井戸」→大井というのがどうやら由来の一つのようですね。ところで穴のサイズが67尺というのは大きさはあんまりです。6〜7尺という意味だと思います。

そうすると「大井」と呼ばれた時期は大体いつ頃なのでしょう?光福寺は782年開創ですし、そこらへんなのでしょうか。

色々探しているうちに、大井(郷)町は、大化の改新(645年)に制定された古東海道の「駅」に該当していた事がわかってきました。大井をめぐる冒険が始まる予感です(続く)。