ブログBlog

奈良時代に遡って、関東の物流ハブであった品河湊(しながわみなと・現在の大井町と品川の中間地点)と、当時の関東経営のお役所があった府中を結ぶ品川道(しながわみち)が存在したことをお話ししました。そしてその道は、現在どの様なルートであったのかを考察します。というものの第1回の武蔵野台地に関する部分を補足させてください。

武蔵野台地は青梅周辺から流れ出てきた多摩川が扇状の地形を形成したことから始まっていますが、この図はそれを手前を大井町、奥を世田谷区にして立体図にして眺めたものです。

出典:地盤なう2019

手前が標高0m前後で奥が標高50m程度。扇状の立体がイメージできると思います。

ピンク色の淀橋台と荏原台は12万年前頃にこの一帯が海になっていた時代の海底が露出したものです。台地といっても表面は非常に起伏に富んでおり、多数の小規模な谷が入っています。大井町の駅の東側は孤立した小さな台地になっていますね。これは昔は地続きだったのが、現在のJR東日本の車両基地を作る時に大幅に削られたために形成されたものです。

武蔵野台地は、歩く機会の減った私たちにとってびっくりするくらいに、谷や坂で形成された入り組んだ場所であることはお分かりいただけたと思います。

下記図はさらに俯瞰しました。大井町と府中がどれくらい離れているのか感覚していただけると思います。

出典:地盤なう2019

2つの街は大体直線距離で24.5km離れています。青梅の標高が約100mなので、緩やかに昇りながらデコボコの起伏の多い台地を抜けていく感じだったのでしょうか。とはいえあまりも起伏の多い地形が続くと、旅人の体力を不要に奪います。とすると当時のルートは地形を利用しつつなるべく平坦な道を選んだはずです。

この知識を踏まえて次回は実際に品川道のルートを考察していきましょう。